備忘録

ただの垂れ流し

日本映画はつまらない、という意見に対する反論としての福田氏の意見の不完全性

news.nicovideo.jp

 こんな記事を見かけたので、少し見てみたらなるほど。 おそらくこの人が言いたいのは「どんぶり感情で批評をするな」という事だろう。 だが、余りにもそれを語るには余りにもお粗末だろう。

 

まず最初のツイート。

 

<引用>

だいたい「今の日本映画はつまらない」とか「神目線」言う人間は、例えば予算のない現場で制作のスタッフがしょぼい弁当をリカバーするために必死で味噌汁作ってキャストやスタッフを盛り上げようする矜持すら知らない。俺はそんなやつらは一切信じない。勝手にほざいてろ。

<引用終了>

 

では福田氏は誰かが酒に飲まれて浮気したところで、「それは貴方の意志ではないから貴方は悪くはない」と言わなければいけないし、殺意がない殺人は悪ではないといわなければいけない。

この意見の本質は「自らが意図していなければ、望む結果ではなくてもその結果に対して悪評をつける事は正しい事ではない」という事だ。

しかし往々にして――特に芸術や仕事などの結果が最重要視される分野では――評価という物は結果にこそ付与可能な物だ。 どれだけ努力をした所で、つまらない物はつまらない。

次に、後半の意見。

 

<引用>

色々な@ツィートを頂いたので、補足、と言うとなんですが、もうちょっと書きますね。思うに、映画の現場というのは、様々なプロのスタッフの「矜持」に満 ちていて、誰もが「いい映画」「面白い映画」を作ろうと必死で働いています。でも実際には、その映画が「面白い映画」になる確率はとても低い。

これはなにも日本映画に限った事ではなく、世界中のすべての映画において言える、と思います。スタッフ各々の矜持で映画の善し悪しは決まらない。そこが映 画の面白いところであり、恐ろしいところ。これは100億円かけた映画でも、5万円で撮られた映画でも同じです(^-^)

でもそれでも、映画が映画として成立するプロセスにおいて存在する様々なスタッフの矜持については常に意識的であるべきだと考えます。だからある映画を見 て、それが、あーあかんわと思った時、「つまらない」「ダメ」は「評価」としてありでも「ゴミ」「クズ」と呼ぶのは個人的にはいたたまれない

映画個別の評価、に関してはほんとうに「自由」ですが、それが侮辱であるのは切ないなと思います。あとは、これが今回の福田のTLの最も言いたかったこと なんですが、「俯瞰的な、神的な視点」から、ジャンル全体を批判、もしくは否定するのはなしだよなあ、と。分析的な批評、は当然あり、ですが

例えば、ハリウッド業界の構造的な問題も日本映画業界の構造的な問題も、常にコンテンポラルな問題として確かに存在します。そこに十分に踏み込んだ分析と思索があり、現場に関する理解も十分にあったうえでの批判批評であれば、それは「あり」だと。でもなんとなーく

「いまのXXX映画ってダメなんじゃね?」的な発言は、もちろん個人的にですが「勘弁してくれよ」と思う、ってことですね。ちなみに、俺はけっこうTLで映画をボロカス書いたりしますが、これには一応自分なりのルールがありまして(例外もあるとは思いますがw)

「この映画、すげえ金使ってのに、全然面白くないじゃん」と思った映画については、マジでいろいろ腹立つので、徹底的に貶します。ただ、「ゴミ」とか「ク ズ」とは言わないですけど(^-^)これは、個人的には、実名出してるし、一応は業界の人間なので、けっこう命賭けてます(^0^)

だって、「なんだこいつ、ボロカス書きやがって」って関係者に思われたら、仕事こなくなりますから。それでも、つまらないものはつまらない。で、これは充 分「偏見」だと思いますが、俺が貶してる映画の制作さんはしょぼい弁当をリカバーするためにミソ汁作ったりしないで済んでるじゃないかとw

<引用終了>

 

侮辱は評価としては不適切である、という物は確かに正しい。 しかしもう一つの意見である「俯瞰的な視点から全てを評価するのは不適切である」というのは道徳的に正しかろうと、手厳しい事ではあるが受け入れるべき全体評価なのだ。

何故か。 保守に染まりきってしまった政治にもいえることであり、学術にもいえること、芸術にもいえることだ。 停滞した機構は流動性を失う。 馴れ合いを求めた仕事は結果への正当な評価を失う。 頑張ったから仕事が出来なくても文句を言うななどという人間は生産者として失格だ。

そして世論としてある意見が散見される時、高確率でその意見はある程度の正当性は帯びている。 反論するには統計を取るなりしてその世論が実は一定の集団のみに見られる意見である事を示すなり、その世論の根本的な誤りを示すしかない。 やるとしたらこれをやるべきなのだ。 「見てからやれ」というのならば、反論もちゃんと「統計を取ってからやれ」というだけの話。

もしも――さすがにこんな事は考えはしていないと思うが――「日本映画は全てつまらないというのだろう? 一つくらい面白いのがあるはずだ、だから日本映画はつまらなくないのだ」とでもいうのであれば、「そりゃそうだ。 でも話は日本映画はつまらない"傾向"があるというだけの話だ」と言えるし、そもそも一つくらい面白いからセーフという論法は弱い野球チームの中に一人強い選手が入ったから、「俺たちはつよい」と言い張るような論法、典型的な木を見て森を見ずだ。

 

更に、彼は自ら「侮辱は評価に値しない」という考えを取ったにも関わらず、自ら「勝手にほざいてろ」という明らかな「侮辱」をしている。

「これは侮辱ではない、そんなつもりはなかったからだ」というのは通らない。 評価とは結果にこそつくものであり、言葉とは意思を表にだすものであり、だからこそ"言葉には気をつけなければならない"のだ。 言葉を選び間違えている時点でそれは"悪いこと"、もっと言うなれば"相手に失礼”だ。

今回の事にあえて教訓をつけるとするならば、「言葉には気をつけろ」という事だろう。

世間一般の議論好きを自称する人間の思考の自己思想至上主義的側面について

 ここ数日の間、連休が出来たので議論好きを集めて議論をする活動団体や、インターネットの掲示板を使って久々にじっくりと自分の興味のある分野についての話をしていた。

そこで思ったのは、本当に議論好きは議論好きでしかなく、そこになんらかの信念があれど、その信念を曲げる事や相容れない事を受け入れようとはしないという事だ。

私はどちらかというと議論好きなのではなく、思考好きの人間であり、前に書いた記事の通り議論とは相手の意見を考察し、自らの思考へと組み込む建設的な物であると考える。 しかし、多くの議論好き達はそうではない。 あくまでも自らの経験や信念の立証の場として議論を利用しているに過ぎないのではないか。

 

例えば善悪論に対してトロッコ問題を出して、善悪の不定性を示しても「自分の中では功利主義が善悪なのだから、それは違うだろう」と自分の中の信念を無根拠に正当な物として扱っていた。

カントの定言命法、義務主義について説明した所で、功利主義達はそれを考察の対象とすらしようとしなかった。(これはまだ無意味かつ狭い視野の考えではあるが、恐らくはまともに本を読んだりしない、つまりはその分野に不勉強な人間ほどこの傾向があると思う。 恐らくは既成概念を知らないが故に既成概念を軽視するような考えに至っているのではないだろうか)

逆に、私が功利主義について「確かに理論的に語れるのが功利主義の特徴ではある。 むしろ善悪という物を世間一般的に考えるのであれば扱いやすい功利主義の方が優位であろう。 しかし本質は功利主義もあれば義務主義もあり、善悪というのは非常に不確定性の高い物であり、否定派も大勢いる以上は功利主義を一概に完全な物として扱うのは不当であろう」と簡単な意見を述べたのにも関わらず、その簡単な意見すら無視して前半のみを取り、「それ見た事か」と鬼の首を取ったかのように正当性を主張する人間が多かった。 無論そうでない人間もいるにはいたのだが、あまりにもそれが多すぎるように感じられたのだ。

だが多い少ないなどは統計でも取らない限りは明らかにならないので一旦置くとしよう。 私が言いたいのは――二度目になってしまうが――多いにせよ少ないにせよ、そのように自らの意見の正当性を確かめる、あるいは押し付ける、もしくは確信を一つも疑わない人間は、そもそも議論に参加するなという事だ。

そのような人間は自らの考えに固執するが故に発展性がなく、発展性のない人間は議論においては流動性を奪うという意味で非常に邪魔な人間なのだ。

しかし、多くのそのような人間は全てを無視してしまうので、恐らくこれを読んだ所で本当には私の声など届きはしないのだろう。

社畜JKの記事見て教育システムについて思った事

 さて、もう一つニュースサイトを見ていて思った。

社畜JKが学校で「納得出来ない」と感じたこと 「なぜ黒板を写メで撮ってはいけないの?」

news.careerconnection.jp

という記事についてだ。文字が大きいのはそのまま記事をコピペしたらフォントサイズまで丁寧にコピーしてくれていたからだ。面倒だから直さない。

で、私はこの記事に半分賛成かつ半分反対だ。

 

まず、「どうして黒板を写メっちゃいけないの?」だが。

私の個人的な経験で申し訳ないのだが、私は大学以外の学生時代に学校ではノートというのをほぼほぼ取ってなかった、というよりも学校では授業を無視して自習していた。 で、学校内では一応は上か真ん中から数えたら一番早いくらいの成績だった、上の中だ。

だからそもそもの話として、「成績を上げたいから」とか、「勉強をしたいから」という理由に基づいてという前提で、「どうして授業を無視しちゃいけないの?」となる。最早黒板以前の問題だ。 大学では「あ、これ黒板ちゃんと見て授業聞かなきゃいけないな、専門性が高すぎる」と思ってちゃんと聴講していたが。

そして、社畜JKさんのいう先生の話をよく聞いて勉強するという方法は実際効果的だと思う。 私の友人にほぼ勉強をしないで京都大学の法学部に行った女がいたが、彼女は「いや先生の話聞いてただけだよ」と言ってのけた。 で、実際その話が説得力を持ったのはその女が私と話している時は物凄い集中力を私に向けているからだ。

半年前に私とした会話などを軽々と一語一句(彼女曰くだが)思い出したりする。 つまりは「それがその人にとってベターな集中のミーディングならそうするべき」なのだ。 最もよくある必要はない、使い慣れた方法を使ったほうが本人の負担も少ない。

 

しかし、しかしだ。 よく知られるように書くという行為が記憶に良いという物は科学的な裏づけがある。

陳述記憶という物が認知心理学の世界にはある。 これは例えば、「AはBである」とか、「AはB年にCのように起こった」とか、そういう事実、経験に対しての記憶だ。 これを分類する言葉としてエピソード記憶意味記憶という物がある。

例えば英単語を覚える時に、Actは行動するという意味と覚えるとしよう。 これは意味記憶だ。 意味記憶だけなら英単語帳とにらめっこしていればいい。 しかしこれを補強する手段として、エピソード記憶を使う。

英単語帳を見て、「あ、これは300ページの右下にあった単語だな」と意味を思い出した経験はないだろうか? これはエピソード記憶だ。 要するに、書くという行為はこのエピソード記憶に「Actの意味として、行動すると書いた」という物が入り、Actの意味の記憶を補強してくれる。

つまりは、書くという行為は確かに科学的には記憶するのに善い行為なのだ。

これはなにも単語のような単純な記憶だけに使われるものではない、数学などで公式を覚える時にそのままの形で覚えるよりも公式の意味を覚えるし、何より応用問題を解きまくってその「使い方」を身につければ公式など形を馬鹿正直に暗記せずとも出てくる。 先の女もテスト前はその使い方に対する対策をしていた。 といっても解法をじーっと眺めているだけのハタから見れば気持ちの悪い物ではあったが。

私は数学が一番成績のよい教科であったが、公式を見たらとりあえずその例題を解きまくる。 身についたら今度は応用問題を解きまくる、そうしたらなんか身についてた、という方法を取っていた。 関係ないが青チャートはよい参考書だし、漢文と古文は憎悪する、特に漢文。 何を中国語の癖して日本の試験に我が物顔で出てくんだお前あぁん? シメ殺したろかァ!?

 

……で。

とにかく覚えるという行為には書くという行為は本当に効果的なのだ。 だから「何故写メっちゃいけないのか」という答えにまずこう答えられるだろうし(最高効率を求めるならばの話だが)、「それがこの教室のやり方だから」という教師としてほぼほぼ失格だが、社会の厳しさと理不尽さを教えるという意味ではめちゃくちゃ優秀な答えも用意できるだろう。 本来の意図とはちょっと違うが、常識とは20歳までに作り上げた偏見の塊だとかいう。 社会なんて偏見とそれが理由の不条理の塊だ。

その不条理こそ社会の持つ負の側面であり、本来なら「これこれこういう理由で記憶にいいから書かなきゃいけないんだよ」というべきなのに、そこを無視して「いいから書け!」というのは本当に酷い話だ。

 

またこの記事では「学校なんて行きたい人がいけばいい」と書いてあるが、これについても半分賛成で半分反対だ。

ドラゴン桜という漫画だったか、「何も特技がないなら大学くらいいっとけ」という意図の台詞があったと思うが、その通りだ。 またその逆も然りで、「何か特技がある人間なら大学、あるいは高校ですら」いかなくていいのだ。 現にこの社畜JKさんはブログライターとデザイナーで喰えているのだろう。 これは立派な特技だ、それで喰えるのだから高校や大学なんて余計なお世話だ。

しかし、しかしだ。 学歴というのは邪魔にならないとも言う。 学歴社会化が進むこの日本において学歴と言うのは最早"大きな武器"とかじゃなく、"マストな武器"だ。 社畜JKさんはそれ以外の喰えるだけのスキルがあるから今はまだいいだろうと考えるだろうが、あくまでも"今はまだいい"だけだ。

リスクマネージメントではある一点で失敗した時の為にエスケープハッチを作る、つまりはリスク分散、保険をかける。 これは極めて基本的だが極めて効果的な物だ。 人生と言う失敗が死に繋がるようなものならばなお更極めて保険というのは重大な意味を持つ。

無論この人がそれを分かっている上で「保険を捨てる覚悟があるんだから学校いかなくてもいいじゃん」というのなら全く何もいう事はない、素晴らしい人であると思う。

 

しかし、可愛い顔をしているけど、ヘンテコな2つの角を作るのは最近の女子高生の流行なのだろうか? たまに私も駅前で見かけたりするが。 なんにせよかわいいから許そう。

ゲーム機バキバキ事件は教育的にどうなのか、という考察

 なんか音楽家の高橋さんという人がゲーム機をバキバキに破壊して問題になっている。 事の詳細はどこぞのニュースサイトにでもまかせるとして、思ったのはこれに対して賛否両論が上がるのはまぁいい。 で、私はこの教育方針には大反対で、要するに反対の立場だ。

 

補足1、私は医者でもなければ心理学者でもなく、間違いがあるかもしれないので、その点についてはちゃんと専門家の意見を優先して信用して欲しい。

 

まず幼少期に子供に最も必要な物とは無償の愛だ、それは条件付の愛であってはならない。 何故か。 それがなければ子供は愛情に飢えた状態のまま育ってしまうのだ。

アダルトチルドレンというのは正にその状態で、彼らは常に愛を求めている。 何故なら幼少期に十分な愛を得られなかった、あるいはその愛が歪んでいたが為にそれを埋めようとしているのだ。 人間は何故だかは知らないが、愛がなければ生きていけないらしい。

自己愛があるじゃないか、というかもしれないが、そもそもアダルトチルドレンはそういった愛されない自分というのに自己嫌悪を覚えたり、条件付の愛を受けたが故に条件付きでしか愛されない自分という"価値の無い存在"に嫌悪感を抱き、自己愛なんてのはなくなってしまう、あるいは歪んだ物になってしまう。

後から愛を注いだところでもう遅い、アダルトチルドレンに必要とされているのは"無償の愛"だ。 親がその役割を一度放棄した以上、アダルトチルドレンには愛を注いだところで"見捨てられるのでは?"という不安が生じてしまう。

そういう状態を医学で"見捨てられ不安"とかいうのだが、そういった物が際立って行動にでてしまうと、アダルトチルドレン境界性人格障害と診断される。 愛という物を感じにくく、愛されていると感じてもそれが"無償の愛"でなければすぐさま見捨てられる不安から自己傷害に至ったり他者を傷害したりする。

 

補足2、アダルトチルドレン人格障害について流石に説明不足すぎると思って、ここで厳密な定義の意味を説明します。

アダルトチルドレンとは「見た目は大人、頭脳は子供」なのではなくて、問題のある家庭に生まれたことで内面に何らかの問題を抱えた子供の事を意味しています。 得てしてこういった家庭問題(機能不全家庭)というのは愛情に関する問題を抱えており、それが"無償の愛を求めてしまう"という状態に繋がってしまうのです。 これはアダルトチルドレンの傾向であり、定義ではありません。 それを定義にしているのは境界性人格障害の方です。 人格障害というのは言葉の印象が悪いので、よく「パーソナリティ障害」とか現代では言われています。 「ボーダーライン」なんて言葉を某メンタルヘルス板で見た人も多いでしょうが、アレです。

でも補足1の通り、ちゃんと「専門家の意見」を優先してくださいね。

 

さて、前提知識としてはこんな感じだが、高橋さんは本当にこの観点から言えば"最低の親"だ。 「あなたは一生ゲームができないという事より、一生ママから信頼されないという事を心配しなさい」という説教は「条件付の愛」であり、「見捨てられ不安」を引き起こす。

「怒る事も子供を本当に思ってやる事なのだから愛なのだ」とかいう人もいるが、アダルトチルドレンについて調べれば分かるし、人格障害についてもいえるのだが、問題はそれが本当に無償の愛かどうかでは全くない。 本人が「無償の愛」と感じるかどうかが重要なのである。

何故か。 人格が歪むというのは極めて内面的な出来事だ。 内面的要素に外的要素が絡むのは、その外的要素の本質ではなく、その外的要素の認識、解釈だ。 本当は青色でも本人が赤色と認識すればそれは赤になってしまう。

さて、ここで更に問題なのは小学生の子供に果たして「ママはこうやって怒っているけど、僕の為に怒ってくれているんだなあ。 僕の事を本当に想っているんだなあ」なんて考えるだろうか。

いや、もっと正確に条件付けしよう。 ゲーム機を目の前で真っ二つにバキバキにするような"威嚇行為"をされた子供は、その威嚇行為の本当の意味を考えられるのか? 否、畏怖して終わりになってしまうのが普通という物だろう。

「約束は子供から言った」とか、「修理できるかどうか考えてからやった」とか、そういった道徳的免罪符は全く無意味だ、問題は子供がどう判断するか、それが教育において最も重要な要素なのだから、親がどれだけ正しかろうと教育的に好ましくないのだから目的の為には無意味どころか逆効果だ。

「ルールを教えてあげている」とか言うのであれば威嚇行為はするべきではなかった。 怒りにまかせた教育は最早支配となんら変わりは無い。 何故か。 力の差で子供を押さえつけているからだ。 そのような教育もまた様々な人格障害を引き起こす。 ざっと思いつくところで回避性、強迫性といったところだろうか。 それらについての詳しい解説は流石に疲れるから資料にでもまかせる。

 

「じゃあどうすればよかったか?」なんていわれたら確かに私も自信がないのだが、多分、約束を破った事による損害を埋め合わせるような何かをさせればよかったのでは?

最初に何が悪かったのかをちゃんと理解させる為に「何が悪かったのか」というのを二人で話し合い、結論をだす。 それから「じゃあ埋め合わせになにをすればいいのか」というのを話し、それを今度は守らせる。

親はこの時あくまでも補助的でなければいけないと思う、結論を押し付けるようなことはしてはいけないし、結論をそのまま与えるような事は思考力と根拠を貧相にさせる。 誘導するくらいが丁度いいだろう。

私ならばまず何故「宿題を終わらせなければゲームをやってはいけないのか」の答えとして「その勉強を怠れば怠惰な人間になる」、「その勉強をしなければ学力がつかず、最悪の場合まともな生活すら送れなくなるかもしれない(勉強の虫になりすぎないようにあくまでも可能性の話にする)」という考えへ誘導し、そこから「親である私は息子である貴方を愛しているから、幸せになってほしい一心でこの約束をした」と伝え、「また、約束を破ることは集団の一員として好ましくない」という考えに誘導し、そこから「補填として1、2時間私の授業を受ける事」とか、「3日の間はゲームを禁止してその間勉強をする事」とかいう罰を取り付けるだろう。 しかし罰の後に褒美をつけるかもしれない、無償の愛の象徴と、辛いことを乗り越えられる"その先にある飴"という物を教える為に。

無論これが正しい教育であるかどうかは分からないし、そもそも完全に正しい教育なんてないだろうし、さらに言えば現実はそう上手くいかないので何度も軌道修正を迫られるだろう。

だけど、まぁ、感情に任せて、あるいはそのように見せてゲーム機を破壊して「私は貴方に条件付の愛で接しています」なんていう教育よりはマシだと思っている。

無論高橋さんとて子供に愛情がない訳ではないだろう、だが、愛があればなんでもいいという訳では全くなく、その愛の表現を慎重に選ばなければいけない。

 

まぁその問題とは別として、いくらなんでも炎上しすぎなんじゃないかなぁ、とも思うが。(笑)

補足3、一応、炎上批判をするつもりはなくて、"なげーなあ飽きないなあ"程度のニュアンスです。 炎上擁護するつもりもなく、"わりとどうでもいい"って感じです。

インターネットの"議論"は議論ではないと思う

序文。

最近インターネットを見ているとものすごい政治的発言が飛び交い、誹謗中傷や人格否定に発展する。 そういう事に対して並々ならぬ不満を抱えていて、この不満をとりあえずどこかに吐き出したいが、友達に対してぶつけるのも気が引けるし、ツイッターでの発信だと私が変人という事もバレる、2chでスレッドを立ててもどうしても長文になるのでスレが伸びない。 なのでハテナブログを始めてみた。

 

本題。

 最近、インターネットは政治色を持つようになってきた印象がある、とよく耳にする。 いや、実際には最近ではないのだ。 今のような勢いこそなけれど、それこそインターネット黎明期から政治色――特にアジア関係の――はインターネットに存在していた。

テキストサイト時代でも国籍で人を人くくりにして暴言を言う人間や管理人はいたし、2ch時代でもニダーというAAが残っているように、アジア関連に対する政治色をインターネットは持っていた。 ただ、インターネット自体の規模が小さい事もあり、目に留まらなかっただけなのだ。

モラルハザードなどと叫ばれている情報社会の現代ではあるものの、モラルハザード自体は前々から起きている、太古とも言うべき時代、非匿名掲示板(プロバイダーの掲示板など)でも本名で誹謗中傷で殴りあう、政治的発言を繰り返し主張するなどの行為はあったのだ。

ハッキリとここで私のいいたい事を述べておく。

「そういった人間は建設的ではない」という事と、「インターネットで議論と呼ばれる物の大半は議論ではない」という事だ。

 

 インターネットが普及する以前であろうと、政治的発言や議論という物に臨む人間は往々にして横暴になる傾向がある。 それは何故か。 分かりやすく私の持論を述べると、以下の通りになる。

インターネットは若者だけでなく、利用者全員に少なからずの万能感をもたらしてしまう。 グーグルの検索で見つかるのは生活に最低限必要な情報だけではなく、最低限の生活には不必要な不祥事、政治情勢、そしてその裏側まで見つかってしまう。 そういった事を知ると、人間は知識的力を手に入れた、自分は人より賢いという優越感を得る傾向がある。

かく言う私も心の表層ではそんなつもりはないにせよ、このブログを書いている時点で心の奥底には優越感という毒があるのだ。 知は毒である、哲学は30を越えた成人にやらせるべきであるとはよく言うが、まさしくその通りで、知識というのは往々にして人のプライドを邪魔なほどに増徴させる――たとえ、間違った知識や、方向のおかしい知恵であってもだ。

だから横暴になる、だから相手の意見をハナから否定してかかる。 そういった人間は、議論という行為においては最も軽視されるべき人間であり、最も議論において収益を得られない人間だ。

 

 そもそも議論とは、相手に主張を認めさせること、相手の主張を打ち砕く、論破する事が目的ではないのだ。 互いにお互いの意見を吟味し、不適切な点を指摘する。 その不適切な点をお互いに改善し、意見をより高みへと上らせるために、複数の意見を融和させていく。

インターネットにおける"議論"というのは決してそのような物ではなく、ただ相手を論破しようと躍起になるだけの物が極めて多い。 更にひどいことに、意見が違うと人格否定を始めてくる。

故に、これ以上に意見が発展する事はまずないのだ。 あるのは白黒付けるという行為だけで、そもそも白黒つかずにお互いに飽きて去る事も少なくなく、むしろそちらの方が数多い。

 

 勿論、インターネットの面白さというのがそういった所にもあるのは否定できない。 ネットイナゴという言葉のように、愉快犯的に善悪を問わずにただお祭り騒ぎ的に論争を楽しむだけという事を、やった事がないわけではない。 すぐに飽きてやめたが。

だが、いくらなんでも最近は本物が多すぎるのだ。 本気でバカな意見を振りかざし、本気でそれが正しいと信じ込む。 インターネットはバカと暇人の物という本が炎上して懐かしい。 読んだ事はないが、タイトルの通りじゃないかと私は昔から一人のインターネットユーザーとして、そう思えてならない。もしそういった傾向があるのならば、一度意見を通そうと思う前に、相手の意見を正しいと考えて議論に臨んでほしい。 相手の意見をハナから否定せずに、まず一考してほしい。 自らの意見を常に疑ってほしい。議論に活発に参加するのだから、知識人ではなくとも言論人ではあるのだ。 私は議論に臨む際の"自らの意見を持つ"、"その上で自らの意見を絶対視しない"、"相手の意見は吟味する"などの矜持を忘れてはならないと思うし、私自身忘れないようにしている。 そうでなくては、ただ自らの意見を無鉄砲にふりかざす愚か者になってしまうのだから。長々と書きたいことを適当に書いたせいで、文体が非常に見苦しい。