備忘録

ただの垂れ流し

世間一般の議論好きを自称する人間の思考の自己思想至上主義的側面について

 ここ数日の間、連休が出来たので議論好きを集めて議論をする活動団体や、インターネットの掲示板を使って久々にじっくりと自分の興味のある分野についての話をしていた。

そこで思ったのは、本当に議論好きは議論好きでしかなく、そこになんらかの信念があれど、その信念を曲げる事や相容れない事を受け入れようとはしないという事だ。

私はどちらかというと議論好きなのではなく、思考好きの人間であり、前に書いた記事の通り議論とは相手の意見を考察し、自らの思考へと組み込む建設的な物であると考える。 しかし、多くの議論好き達はそうではない。 あくまでも自らの経験や信念の立証の場として議論を利用しているに過ぎないのではないか。

 

例えば善悪論に対してトロッコ問題を出して、善悪の不定性を示しても「自分の中では功利主義が善悪なのだから、それは違うだろう」と自分の中の信念を無根拠に正当な物として扱っていた。

カントの定言命法、義務主義について説明した所で、功利主義達はそれを考察の対象とすらしようとしなかった。(これはまだ無意味かつ狭い視野の考えではあるが、恐らくはまともに本を読んだりしない、つまりはその分野に不勉強な人間ほどこの傾向があると思う。 恐らくは既成概念を知らないが故に既成概念を軽視するような考えに至っているのではないだろうか)

逆に、私が功利主義について「確かに理論的に語れるのが功利主義の特徴ではある。 むしろ善悪という物を世間一般的に考えるのであれば扱いやすい功利主義の方が優位であろう。 しかし本質は功利主義もあれば義務主義もあり、善悪というのは非常に不確定性の高い物であり、否定派も大勢いる以上は功利主義を一概に完全な物として扱うのは不当であろう」と簡単な意見を述べたのにも関わらず、その簡単な意見すら無視して前半のみを取り、「それ見た事か」と鬼の首を取ったかのように正当性を主張する人間が多かった。 無論そうでない人間もいるにはいたのだが、あまりにもそれが多すぎるように感じられたのだ。

だが多い少ないなどは統計でも取らない限りは明らかにならないので一旦置くとしよう。 私が言いたいのは――二度目になってしまうが――多いにせよ少ないにせよ、そのように自らの意見の正当性を確かめる、あるいは押し付ける、もしくは確信を一つも疑わない人間は、そもそも議論に参加するなという事だ。

そのような人間は自らの考えに固執するが故に発展性がなく、発展性のない人間は議論においては流動性を奪うという意味で非常に邪魔な人間なのだ。

しかし、多くのそのような人間は全てを無視してしまうので、恐らくこれを読んだ所で本当には私の声など届きはしないのだろう。