備忘録

ただの垂れ流し

社畜JKの記事見て教育システムについて思った事

 さて、もう一つニュースサイトを見ていて思った。

社畜JKが学校で「納得出来ない」と感じたこと 「なぜ黒板を写メで撮ってはいけないの?」

news.careerconnection.jp

という記事についてだ。文字が大きいのはそのまま記事をコピペしたらフォントサイズまで丁寧にコピーしてくれていたからだ。面倒だから直さない。

で、私はこの記事に半分賛成かつ半分反対だ。

 

まず、「どうして黒板を写メっちゃいけないの?」だが。

私の個人的な経験で申し訳ないのだが、私は大学以外の学生時代に学校ではノートというのをほぼほぼ取ってなかった、というよりも学校では授業を無視して自習していた。 で、学校内では一応は上か真ん中から数えたら一番早いくらいの成績だった、上の中だ。

だからそもそもの話として、「成績を上げたいから」とか、「勉強をしたいから」という理由に基づいてという前提で、「どうして授業を無視しちゃいけないの?」となる。最早黒板以前の問題だ。 大学では「あ、これ黒板ちゃんと見て授業聞かなきゃいけないな、専門性が高すぎる」と思ってちゃんと聴講していたが。

そして、社畜JKさんのいう先生の話をよく聞いて勉強するという方法は実際効果的だと思う。 私の友人にほぼ勉強をしないで京都大学の法学部に行った女がいたが、彼女は「いや先生の話聞いてただけだよ」と言ってのけた。 で、実際その話が説得力を持ったのはその女が私と話している時は物凄い集中力を私に向けているからだ。

半年前に私とした会話などを軽々と一語一句(彼女曰くだが)思い出したりする。 つまりは「それがその人にとってベターな集中のミーディングならそうするべき」なのだ。 最もよくある必要はない、使い慣れた方法を使ったほうが本人の負担も少ない。

 

しかし、しかしだ。 よく知られるように書くという行為が記憶に良いという物は科学的な裏づけがある。

陳述記憶という物が認知心理学の世界にはある。 これは例えば、「AはBである」とか、「AはB年にCのように起こった」とか、そういう事実、経験に対しての記憶だ。 これを分類する言葉としてエピソード記憶意味記憶という物がある。

例えば英単語を覚える時に、Actは行動するという意味と覚えるとしよう。 これは意味記憶だ。 意味記憶だけなら英単語帳とにらめっこしていればいい。 しかしこれを補強する手段として、エピソード記憶を使う。

英単語帳を見て、「あ、これは300ページの右下にあった単語だな」と意味を思い出した経験はないだろうか? これはエピソード記憶だ。 要するに、書くという行為はこのエピソード記憶に「Actの意味として、行動すると書いた」という物が入り、Actの意味の記憶を補強してくれる。

つまりは、書くという行為は確かに科学的には記憶するのに善い行為なのだ。

これはなにも単語のような単純な記憶だけに使われるものではない、数学などで公式を覚える時にそのままの形で覚えるよりも公式の意味を覚えるし、何より応用問題を解きまくってその「使い方」を身につければ公式など形を馬鹿正直に暗記せずとも出てくる。 先の女もテスト前はその使い方に対する対策をしていた。 といっても解法をじーっと眺めているだけのハタから見れば気持ちの悪い物ではあったが。

私は数学が一番成績のよい教科であったが、公式を見たらとりあえずその例題を解きまくる。 身についたら今度は応用問題を解きまくる、そうしたらなんか身についてた、という方法を取っていた。 関係ないが青チャートはよい参考書だし、漢文と古文は憎悪する、特に漢文。 何を中国語の癖して日本の試験に我が物顔で出てくんだお前あぁん? シメ殺したろかァ!?

 

……で。

とにかく覚えるという行為には書くという行為は本当に効果的なのだ。 だから「何故写メっちゃいけないのか」という答えにまずこう答えられるだろうし(最高効率を求めるならばの話だが)、「それがこの教室のやり方だから」という教師としてほぼほぼ失格だが、社会の厳しさと理不尽さを教えるという意味ではめちゃくちゃ優秀な答えも用意できるだろう。 本来の意図とはちょっと違うが、常識とは20歳までに作り上げた偏見の塊だとかいう。 社会なんて偏見とそれが理由の不条理の塊だ。

その不条理こそ社会の持つ負の側面であり、本来なら「これこれこういう理由で記憶にいいから書かなきゃいけないんだよ」というべきなのに、そこを無視して「いいから書け!」というのは本当に酷い話だ。

 

またこの記事では「学校なんて行きたい人がいけばいい」と書いてあるが、これについても半分賛成で半分反対だ。

ドラゴン桜という漫画だったか、「何も特技がないなら大学くらいいっとけ」という意図の台詞があったと思うが、その通りだ。 またその逆も然りで、「何か特技がある人間なら大学、あるいは高校ですら」いかなくていいのだ。 現にこの社畜JKさんはブログライターとデザイナーで喰えているのだろう。 これは立派な特技だ、それで喰えるのだから高校や大学なんて余計なお世話だ。

しかし、しかしだ。 学歴というのは邪魔にならないとも言う。 学歴社会化が進むこの日本において学歴と言うのは最早"大きな武器"とかじゃなく、"マストな武器"だ。 社畜JKさんはそれ以外の喰えるだけのスキルがあるから今はまだいいだろうと考えるだろうが、あくまでも"今はまだいい"だけだ。

リスクマネージメントではある一点で失敗した時の為にエスケープハッチを作る、つまりはリスク分散、保険をかける。 これは極めて基本的だが極めて効果的な物だ。 人生と言う失敗が死に繋がるようなものならばなお更極めて保険というのは重大な意味を持つ。

無論この人がそれを分かっている上で「保険を捨てる覚悟があるんだから学校いかなくてもいいじゃん」というのなら全く何もいう事はない、素晴らしい人であると思う。

 

しかし、可愛い顔をしているけど、ヘンテコな2つの角を作るのは最近の女子高生の流行なのだろうか? たまに私も駅前で見かけたりするが。 なんにせよかわいいから許そう。