備忘録

ただの垂れ流し

日本映画はつまらない、という意見に対する反論としての福田氏の意見の不完全性

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 こんな記事を見かけたので、少し見てみたらなるほど。 おそらくこの人が言いたいのは「どんぶり感情で批評をするな」という事だろう。 だが、余りにもそれを語るには余りにもお粗末だろう。

 

まず最初のツイート。

 

<引用>

だいたい「今の日本映画はつまらない」とか「神目線」言う人間は、例えば予算のない現場で制作のスタッフがしょぼい弁当をリカバーするために必死で味噌汁作ってキャストやスタッフを盛り上げようする矜持すら知らない。俺はそんなやつらは一切信じない。勝手にほざいてろ。

<引用終了>

 

では福田氏は誰かが酒に飲まれて浮気したところで、「それは貴方の意志ではないから貴方は悪くはない」と言わなければいけないし、殺意がない殺人は悪ではないといわなければいけない。

この意見の本質は「自らが意図していなければ、望む結果ではなくてもその結果に対して悪評をつける事は正しい事ではない」という事だ。

しかし往々にして――特に芸術や仕事などの結果が最重要視される分野では――評価という物は結果にこそ付与可能な物だ。 どれだけ努力をした所で、つまらない物はつまらない。

次に、後半の意見。

 

<引用>

色々な@ツィートを頂いたので、補足、と言うとなんですが、もうちょっと書きますね。思うに、映画の現場というのは、様々なプロのスタッフの「矜持」に満 ちていて、誰もが「いい映画」「面白い映画」を作ろうと必死で働いています。でも実際には、その映画が「面白い映画」になる確率はとても低い。

これはなにも日本映画に限った事ではなく、世界中のすべての映画において言える、と思います。スタッフ各々の矜持で映画の善し悪しは決まらない。そこが映 画の面白いところであり、恐ろしいところ。これは100億円かけた映画でも、5万円で撮られた映画でも同じです(^-^)

でもそれでも、映画が映画として成立するプロセスにおいて存在する様々なスタッフの矜持については常に意識的であるべきだと考えます。だからある映画を見 て、それが、あーあかんわと思った時、「つまらない」「ダメ」は「評価」としてありでも「ゴミ」「クズ」と呼ぶのは個人的にはいたたまれない

映画個別の評価、に関してはほんとうに「自由」ですが、それが侮辱であるのは切ないなと思います。あとは、これが今回の福田のTLの最も言いたかったこと なんですが、「俯瞰的な、神的な視点」から、ジャンル全体を批判、もしくは否定するのはなしだよなあ、と。分析的な批評、は当然あり、ですが

例えば、ハリウッド業界の構造的な問題も日本映画業界の構造的な問題も、常にコンテンポラルな問題として確かに存在します。そこに十分に踏み込んだ分析と思索があり、現場に関する理解も十分にあったうえでの批判批評であれば、それは「あり」だと。でもなんとなーく

「いまのXXX映画ってダメなんじゃね?」的な発言は、もちろん個人的にですが「勘弁してくれよ」と思う、ってことですね。ちなみに、俺はけっこうTLで映画をボロカス書いたりしますが、これには一応自分なりのルールがありまして(例外もあるとは思いますがw)

「この映画、すげえ金使ってのに、全然面白くないじゃん」と思った映画については、マジでいろいろ腹立つので、徹底的に貶します。ただ、「ゴミ」とか「ク ズ」とは言わないですけど(^-^)これは、個人的には、実名出してるし、一応は業界の人間なので、けっこう命賭けてます(^0^)

だって、「なんだこいつ、ボロカス書きやがって」って関係者に思われたら、仕事こなくなりますから。それでも、つまらないものはつまらない。で、これは充 分「偏見」だと思いますが、俺が貶してる映画の制作さんはしょぼい弁当をリカバーするためにミソ汁作ったりしないで済んでるじゃないかとw

<引用終了>

 

侮辱は評価としては不適切である、という物は確かに正しい。 しかしもう一つの意見である「俯瞰的な視点から全てを評価するのは不適切である」というのは道徳的に正しかろうと、手厳しい事ではあるが受け入れるべき全体評価なのだ。

何故か。 保守に染まりきってしまった政治にもいえることであり、学術にもいえること、芸術にもいえることだ。 停滞した機構は流動性を失う。 馴れ合いを求めた仕事は結果への正当な評価を失う。 頑張ったから仕事が出来なくても文句を言うななどという人間は生産者として失格だ。

そして世論としてある意見が散見される時、高確率でその意見はある程度の正当性は帯びている。 反論するには統計を取るなりしてその世論が実は一定の集団のみに見られる意見である事を示すなり、その世論の根本的な誤りを示すしかない。 やるとしたらこれをやるべきなのだ。 「見てからやれ」というのならば、反論もちゃんと「統計を取ってからやれ」というだけの話。

もしも――さすがにこんな事は考えはしていないと思うが――「日本映画は全てつまらないというのだろう? 一つくらい面白いのがあるはずだ、だから日本映画はつまらなくないのだ」とでもいうのであれば、「そりゃそうだ。 でも話は日本映画はつまらない"傾向"があるというだけの話だ」と言えるし、そもそも一つくらい面白いからセーフという論法は弱い野球チームの中に一人強い選手が入ったから、「俺たちはつよい」と言い張るような論法、典型的な木を見て森を見ずだ。

 

更に、彼は自ら「侮辱は評価に値しない」という考えを取ったにも関わらず、自ら「勝手にほざいてろ」という明らかな「侮辱」をしている。

「これは侮辱ではない、そんなつもりはなかったからだ」というのは通らない。 評価とは結果にこそつくものであり、言葉とは意思を表にだすものであり、だからこそ"言葉には気をつけなければならない"のだ。 言葉を選び間違えている時点でそれは"悪いこと"、もっと言うなれば"相手に失礼”だ。

今回の事にあえて教訓をつけるとするならば、「言葉には気をつけろ」という事だろう。